LOGIN終電が去ったあとのホームは、急に音がなくなった。
紡は、ベンチの前にしゃがんだままで、しばらく動けなかった。有馬の目は、紡を見ているのか見ていないのか判別がつかなかった。ただ、目だけは開いていた。
駅員の足音が、ホームの向こうから近づいてきた。
「お客さん、大丈夫ですか」
近くで聞こえた声に、紡はようやく我に返った。膝を伸ばして立ち上がる。
「すみません、大丈夫です。すぐ出ますので」
駅員は、軽く頷いて、別のホームへ歩いていった。紡は、もう一度、有馬に向き直った。
「有馬、立てる?」
返事は、母音だけのような、よくわからない呟きだった。それでも紡の声に応えるように、有馬はゆっくり立ち上がった。立った瞬間、足元が大きくぶれて、紡はとっさに腕を伸ばした。
有馬の体が、紡の腕の中に倒れ込んでくる。
息が止まった。
「……お前、相当、酔ってるな」
返事はなかった。
紡は有馬の右腕を自分の肩に回し、もう片方の腕を有馬の腰に添えた。半身で抱えるかたちで、ホームを歩きはじめた。一歩、踏みだしただけで、想像していたよりずっと重たい体重が、紡の肩にのしかかった。記憶のなかの、リュックを揺らして歩く高校生の体ではなかった。当然のはずなのに、その当然が、紡には、どこか不思議に感じられた。
肩越しに、整髪料の柑橘の匂いと、わずかな酒の匂いが交じる。十年前、紡が知っていた匂いとは、別の匂いだった。
「家、どこ?」
肩を支え直しながら、訊いた。
「……えき、の……」
呂律の回らない口で、有馬は、町名を呟いた。聞き取れたのは、都心からは少し離れた地名だった。終電は、もう、行ってしまっている。
「タクシーで送るから、しっかりしろよ」
返事のかわりに、紡の肩で、有馬が小さく頷いた気配があった。
なんで、こんなになるまで飲むんだ。
心配と苛立ちのちょうど真ん中のような感情が、ふと、胸の奥に湧いた。誰に対しての苛立ちなのか、自分でも、よく、わからなかった。
駅前のロータリーには、数人がタクシーを待っていた。紡は最後尾に並び、有馬の腕を、もう一度、肩で支え直した。冷たい夜気のなかで、有馬の体だけが、不自然に温かい。
数分待って、空車が目の前に停まった。後部座席のドアが開くと、有馬の体を半ば押し込むように乗せて、紡もそのあとに乗り込んだ。運転手に住所を告げる声が、自分でも驚くくらい、冷静だった。落ち着いている、というより、感情が、まだ、追いついていないのかもしれなかった。
車が走りはじめると、有馬は、すぐに、目を閉じた。
窓の外を、街灯が流れていく。規則的に点滅する光が、有馬の顔を明るくしたり暗くしたりしていた。
紡は、隣で眠る有馬の横顔を、見ていた。睫毛が、想像していたより、長かった。有馬の顔をこうして近くで見る機会など、十年のあいだ一度もなかった。
頬骨の影が、記憶のころより、少し深い気がした。痩せたのか、ただ大人になっただけなのか、判別がつかない。十年というのは、人の顔にどれくらいの変化を残すものなのだろうか。紡は、自分の顔の変化を、自分ではうまく見られないことに、ふと、気づいた。
車体が、信号待ちで一度、軽く揺れた。
その瞬間、有馬の頭が、紡の右肩に、ことん、と落ちてきた。
紡の体が、固まった。動かしたら、起こしてしまう、と思ったのは、たぶん、半分は嘘だった。動かしたくない、と思った。動かしたら、この重さが、もう、二度と肩に戻ってこない気がした。
有馬の頭の重みと、髪の冷たさと、首筋からのぼるかすかな体温が、紡の右肩に、ぴったりと、染みていく。
窓の外を見るふりをして、紡は、息を、長く吐いた。
流れる街灯を眺めながら、紡は、十年前のことを、思い出していた。
高校二年で同じクラスになり、なんとなく話すようになった。いつのまにか、毎日一緒に帰るようになっていた。紡が有馬を「好きだ」と自覚したのは、たぶん、二年の夏のあたりだった。気づいたときには、もう、そう思っていた、というのが、いちばん近かった。
自分のなかにそういう傾向があることは、それより前から、なんとなくわかっていた。誰かに打ち明けるようなことではなかった。打ち明けたところで、なにかが変わるとも思わなかったし、変わってほしくもなかった。胸のなかにそっとしまっておけば、それで足りる感情だと、当時の紡は、信じていた。
有馬の部活が終わる時間まで、紡はよく図書室にいた。机に教科書を広げて、勉強しているふりをしながら、廊下を通る靴音に耳を澄ませていた。閉館十分前、迎えにくるように現れる有馬の姿を、いまでも思い出せる。
夕陽に照らされた昇降口で、靴に履き替えた。ブレザーを着てリュックを背負った有馬の背中を、紡は、ほんの半歩、後ろから歩いていた。並ぶこともできた。並んで歩こうと思えば、いつだって、できた。
でも、紡は、半歩、離した。
並んでしまうと、肩が触れる。手の甲が、触れる。触れた瞬間に、自分のなかの、なにかが、たぶん、勝手に動いてしまう。動いたら、止められなくなる気がした。だから、紡は、いつも、半歩、後ろを歩いた。
有馬が歩調をゆるめて、紡を待つように歩く日もあった。そのたびに、紡もそっと、自分の歩幅を縮めた。ほんの一歩、踏みだしさえすれば、隣に並べた。並ばなかった。並びたくないわけではなかった。並んでしまうことが、こわかった。結局、その半歩は、卒業の日まで、縮まらなかった。
有馬の部活仲間と別れる交差点で、紡は毎日、声をかけた。それがいつしか、どちらからともなく、その交差点で待ち合わせるかたちに変わった。
ある日、クラスメイトが、ふたりの様子を冷やかしてきた。
「なあ、お前ら、付き合ってんの?」
紡は、考えるより先に、答えていた。
「そんなんじゃないよ」
声は、思っていたより、軽く出た。なんでもない、というふうに、笑ってさえみせた。あのとき、有馬は、どんな顔をしていただろう。
紡は、あのときの有馬の顔を、見ていない。
正確には、見ないようにしていた。
タクシーが、ゆっくりと、停車した。
見ると、少し古びたマンションの前に、車は停まっていた。
「ここで、ちょっと待っててもらえますか」
紡は運転手に頼み、有馬を揺り起こした。
「有馬、着いたよ」
有馬の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。駅のベンチで眠っていたときよりは、いくぶん意識がはっきりしているように見えた。
紡を見て、有馬は少し笑った。
その笑い方が、十年前と、同じだった。
紡は、胸の奥を、見えない手で、ゆるく握られたような感覚に陥った。
なにも、言えなかった。
有馬の腕を肩に回したまま、エントランスへ歩く。オートロックの前で、有馬ははじめてはっきりとした声を出した。
「ここまででいい。……すまない」
そう言って、紡から半歩、距離を取った。足元は、まだ、おぼつかない。建物の中にさえ入れば、エレベーターまではなんとかなる。そう自分に言い聞かせた。
別れの言葉を口にしようとして、紡は迷った。迷って、鞄から手帳を取りだしていた。
手帳のページを一枚、やぶる。ペンで自分の名前と携帯の番号を書いた。書きながら、頭の片隅で「自分はなにをしているのだろう」と思った。この十年、こちらの番号は向こうから求められたことが一度もなかった。求められなかった番号を、こちらから渡している。
それでも、紙を、小さく折りたたんで、有馬のジャケットの胸ポケットに、そっと、押し込んだ。
「……俺の、連絡先。なんか、あったら」
有馬は、表情を変えずに、ひとつ、頷いた。
「頷いた」という、それだけの動きが、紡にはなぜか過分に思えた。
有馬の背中が、エントランスの自動ドアの向こうへ消えるまで、紡は、その場で見送った。後ろ姿が、見えなくなったあとも、しばらく、紡は動けなかった。
タクシーに戻り、自分のマンションの住所を告げる。声がわずかに掠れた。
車が再び走りだす。後部座席にもう、有馬はいない。さっきまで、紡の右肩で眠っていたはずの重さも、もうない。なのに、肩のあたりだけが、まだ、温度を覚えている気がした。
ジャケットの胸ポケットには、有馬の手が触れた感触まで、紡には残っていた。あんなに緊張して、紙切れを一枚、押し込んだだけだ。それなのに、自分のほうがなにか大きなものを相手から預かったような気持ちになっていた。
紡は自分の指先を見た。
膝の上に置いた手の指先が、ほんの少しだけ震えていた。
うれしいのか、こわいのか、ほっとしているのか、不安なのか、自分のなかの感情にまだ名前がついていなかった。連絡先を渡した。連絡がくるかどうかはわからない。十年前、自分の知らないところで連絡を絶った人がいる。十年後の今夜、こちらから差しだした番号を捨てずに持っていてくれる保証は、どこにもなかった。
それでも、紙を渡したことを、紡は後悔していなかった。後悔していない、ということだけがいま、自分のなかではっきりしている唯一の感情だった。
十年、会えなかった人が、ついさっきまで自分の肩で眠っていた。それだけのことが、こんなに自分の体をばらばらにするとは思わなかった。
窓の外を、街灯が流れていく。
紡は目を閉じた。閉じても瞼の裏に有馬の笑い方が残っていた。
今夜、家に帰って眠れるだろうか。
たぶん、眠れない。
そう思いながら紡は、もう一度自分の右肩にそっと手を当てた。布越しの肩に、自分の指の温度しかもう感じなかった。
それでも紡はしばらくその手をはなさなかった。
六月の下旬になると、毎日しとしと雨が降り続くようになった。鬱陶しい雨も、好きな人と一緒なら気にならない。 先日、紡の母から電話がかかってきた。例の定期連絡だ。「元気にしているのか」と、毎回同じことを心配してくれる。大人なんだから、そんなに心配しなくてもいいのに。 そう思いながら、ふと、もう何年も実家に帰っていないことに気づいた。電話の声を聞くたび、少しだけ胸がちくりとする。「お母さん、なんて?」 朔也が、隣からのぞき込んでくる。「いや、別に。いつもの定期連絡。元気にしてるのか、って」「そっか。実家には帰ってないの?」「ここ数年、帰ってないかな……」「じゃあ、帰れば?」「え?」「お母さん、さみしいんじゃないの?」 確かに、そうかもしれない。電話のたびに、同じことばかり聞かれる。元気なの? 仕事は順調? 顔を直接見れば、親ならすぐにわかることばかりだ。それでも電話で確かめるしかないのは、紡が帰らないからだ。「そ……っか」 だからといって、わざわざ帰りたいとも思えなかった。実家には、まだ言えていないことが多すぎる。「なあ。俺と一緒に、地元に行こうよ」「は?」「久しぶりに、高校とか見てみたくねえ?」 朔也との思い出の地を、ふたりで巡ろうということだろうか。実家には数年帰っていないし、高校なんて卒業以来だ。「そう……だな」「そのついでに、実家に寄ればいいじゃん」「あ……」 「ついで」と言ったけれど、本当は、紡が実家に帰りやすいように気を遣ってくれたのだ。なんでもないふりをして、いちばん大事なところをそっと後押ししてくれる。朔也は、いつもそうだ。「じゃあ、朔也も俺の家に来てよ」「俺?」「……うん。大事な人を、紹介したい。でも――」 紡は、思
六月も中旬になり、鬱陶しい天気が続くようになった。部屋の中は湿気が高くジメジメしている。けれど好きな人といればそんなことすら、気にならないから不思議だ。 もうすっかり朔也の部屋に入り浸ってしまい、この部屋が元から紡の部屋だったのではないかと思えるほどだった。朔也が使っていいと言ってくれたチェストの一番下の引き出しは、紡の服でパンパンになっていた。申し訳ないと思いながらも、チェストの上にも服を積んでいた。収納用のボックスを買おうかとも思ったが、紡は居候の身だ。そんなことはできるはずもなかった。 クローゼットの前でぼんやりしていると、後ろから朔也が声をかけてきた。「紡のもの、増えたな」「……うん。ごめん。つい、甘えていっぱい持ってちゃって」「いいんじゃねえか?」「なにが?」 朔也は一瞬目を泳がせたが、紡を見つめた。耳の端がほんのりと赤くなっている。「……もう、一緒に住んじまったら? そのほうが早くねえか?」 そっけなくそう言うが、朔也の目は真剣だった。 冗談で言っているわけではない。そんなことぐらい、鈍感な紡でもわかった。 紡は息をのんだ。朔也からそんな提案を受けるとは思っていなかったからだ。 この部屋に入り浸るようになってから、ずっとここにいられればいいなと思っていた。けれど、朔也には朔也の生活がある。ひとりになりたいときもあるはずだと思っていた。だから、紡からは「ここにずっといたい」とは言えなかった。 目の奥がじんと熱くなる。 ずっと言いたくて言えなかった言葉を、朔也のほうから差し出してくれた。それがどうしようもなく、うれしかった。「うん、早い! 朔也とずっと一緒にいたい!」 思わず朔也の首に飛びつくと、やさしく受け止めてくれた。「……そうか」 朔也は体の力が抜けたようだった。そのひと言を伝えるだけで、緊張していたのだろうか。 そういえば、もうすぐ契約の更新だった。「俺、この部屋にずっといていいの?」「俺が紡にいてほしいんだよ」
六月になった。梅雨入り前の、からりと乾いた空気が頬をなでていく。 紡と付き合いはじめて、もう四か月目になる。 片想いの時間がお互い長すぎて、最初はうまく心のうちを出せなかった。それでも、一度ぶつかってからは少しずつほどけてきた気がする。 いまでは紡が部屋に来る日のほうが多く、ほとんど半同棲のような暮らしだ。自分の部屋に紡がいる。それだけのことが、いまだに夢みたいに思える。隣で紡が目を覚ますたびに、これは現実かとこっそり確かめてしまう。 ずっと、欲しがることすら自分には許されない気がしていた。それがいま、当たり前みたいに隣にいる。 六月の最初の土曜日。 紡とデートをして、食事をした帰りだった。どちらからともなく足が向いたのは、あの駅だった。紡と再会した、あの駅。 改札をくぐり、ホームの奥のベンチへ向かう。八か月前、朔也が酔いつぶれて眠っていた、あのベンチだ。同じ場所に、同じ形のままぽつんと残っている。ふたりで並んで腰を下ろした。 八か月前のあの夜、ここで酔いつぶれていた自分を紡が見つけた。あのときは、まさかこんな日がくるなんて思いもしなかった。 夜のホームは、人もまばらだった。生ぬるい風が、線路の匂いを運んでくる。 ――言うなら、いまだ。 朔也は、ずっと言いそびれていたことを話す決心をした。 嘘はつかない。隠したいことがあれば、ふたりで決める。先日、そう約束したばかりだった。なら、胸の奥にしまったままのこれもちゃんと渡しておきたい。 大きく息を吸って、腹に力を込める。「あのさ……」「ん?」 紡が、あどけない表情で朔也を見た。一点の曇りもない目が、まっすぐに朔也を映している。その澄んだ目を見ていると、よけいに言い出しづらくなる。「あの夜さ……。『有馬だよね』って言われた瞬間。実は意識が戻ってたんだ」「うん。それは聞いたよ。覚えてないふりした、って」「あ…&hellip
日曜の夕方、紡はひさしぶりに自宅マンションへ帰ってきた。 いまは朔也の家にいるほうが多く、この部屋に戻るのは週に一度あるかないかだ。長く暮らしてきたはずなのに、こもった空気が、ここをよその家みたいに感じさせる。 窓から差す夕日が、見慣れた家具をオレンジに染めている。ものはどれも元の場所にあるのに、どこか冷たく見えた。郵便受けにたまった広告。流しに伏せたままのマグカップ。生活の止まった部屋の匂いがする。 ここには、紡の荷物がある。けれど、紡の暮らしはもうこの部屋にはない。 ――きっと、あっちでの暮らしのほうが、もう心地いいんだろうな。 そんなことを考えていると、スマホが震えた。画面を見ると、実家からだった。「もしもし」『紡?』 母だった。実家からは月に何度か、こうして電話がかかってくる。もう二十七なんだから心配いらないと言っても、やめてくれない。「母さん、元気?」『私は元気よー。紡は?』 朗らかな声に、少しだけ肩の力が抜けた。なんだかんだ言って、家族からの電話は特別なのかもしれない。「うん。元気」『仕事は忙しいの?』「あー、うん。新しいプロジェクト任されて、ちょっとね」『そう。体に気をつけなさいよ』「ありがと」 電話の向こうで、母は近所のことや父の愚痴をひとしきり話した。その声を聞いていると、子どものころの台所の匂いまでよみがえる気がした。 他愛もない近況を話していると、ふと母がこぼした。『紡、最近、声が明るいわね』「え?」 心臓が、どくんと跳ねた。 声が明るいのは、たぶん朔也のおかげだ。いや、たぶんじゃない。間違いなく、朔也のせいだ。一緒に過ごすようになってから、毎日が自分でも驚くくらいやわらかくなった。 でも、母はなにも知らない。紡がゲイだということも、朔也のことも。 母は、紡を二十七年見てきた人だ。声の調子ひとつでなにかを感じ取っても、不思議じゃない。それが、うれしいような、こ
まだまだ自分の気持ちを全部朔也に言えないときもある。けれど、言葉を飲み込む回数はずいぶん減ったように感じる。それは朔也も同じようだった。いつもなら笑ってごまかすところを、きちんと言葉にしてくれる。そうやってお互い、ちょっとずつ前に進んでいる気がした。 苦手なことをするのは、誰だって嫌だろう。それでも朔也のためなら一生懸命になれる自分を見ると、よっぽど好きなんだなと思ってしまう。 朔也の家に着替えを置くようになってから、平日も朔也の部屋で過ごす時間が増えた。増えたというより、ほとんど住んでいるようなものだ。もう、自分の部屋はいらないんじゃないか。そんなふうに思うくらいだった。「はい、お待たせ」「うわっ。うまそ」 朔也は、紡が並べた夕飯を、目を細めて見た。「朔也、全然ご飯作ってくれないじゃん」「ははは。いや、紡の飯がうまいからさ……」 そう言うと、朔也は大皿から麻婆豆腐をすくって小鉢に入れた。スプーンを口に運び、顔をほころばせる。「うまーっ! これ、レトルトじゃないんだろ?」「意外と簡単だよ。調味料さえあればパパッとできるし。今度教えようか?」「いや、いい。紡が作って」「俺、家政婦じゃないんだけど!」 ぷうっと頬を膨らませると、朔也が吹き出した。「相変わらず紡はかわいいなぁ。ちゃんと後で体で払ってやるよ」「えっち! そんなことで済ませられると思うなよ!」「はははは」 くだらないやりとりをして、ふたりで笑う。なんでもない夜だ。けれど、こういう夜こそが紡にはいちばんかけがえのないものだった。 そのとき、紡のスマホが震えた。「誰だろう?」「見たら?」「……うん」 画面を確認すると、高城からのメッセージだった。タップして開く。『白瀬ー! 今度、有馬と三人で飲もうぜ! 同窓会の後、お前らの様子がおかしかったから、気になってさ!』 なんだ、こ
眠ったはずなのに、体がすっきりしない。まるで鉛が、体の真ん中に居座っているようだった。その重みが、紡の心まで侵食していく。 ベッドに大の字になって、ぼんやりと天井を見上げる。 本当なら、いまごろは朔也の部屋でくだらないことを言い合っているはずだった。それなのに――。 この二週間、死ぬほど忙しかった。週末に朔也に会えなくて、さびしかった。連絡できなかったのは、仕事のせいだけじゃない。心配をかけたくなかったのだ。「ああっ! もうっ!」 紡は頭をかきむしった。 わかっている。心配をかけたくないからと、なにも言わずにいるのは、いまの紡たちにはもう必要のないことだ。黙っていた自分が悪い。 それなのに、本当のことを言い当てられてカチンときた。だから、言い返してしまった。 昨日のドアの閉まる音が、まだ耳の奥にこびりついている。あの音を、自分で鳴らしたのだ。 紡はサイドテーブルに手を伸ばし、スマホの画面をつけた。時刻は、もうすぐ正午だ。着信もメッセージも、なにもない。 もちろん、紡からは電話もしていないし、メッセージも送っていない。ただひと言、「ごめん」と送れば済む話だった。けれど、それでは今までとなにも変わらない。謝って、閉じる。それで丸くおさまったことにして、結局なにも話さないままになる。 ふと、水瀬の言葉がよみがえった。「ちゃんと喧嘩しろよ」 あのときは、どうして水瀬がそんなことを言うのかわからなかった。十年も想い続けた相手なのだから、できることなら喧嘩なんてしたくない。誰だってそう思うだろう。 スマホをサイドテーブルに戻し、頭の後ろで手を組む。 仲直りとは、なんだろう。 怒りがおさまってから会うことだろうか。いや、それを待っていたら、また十年が過ぎてしまう。それだけは、嫌だ。せっかく再会して、恋人同士にまでなれたのに。このまま、なんとなく終わっていくなんて絶対に嫌だった。 紡は、ベッドから飛び起きた。 シャワーを浴びると、頭の芯が少しだけ冷えた。それでも、胸の奥の怒りはまだくすぶって
あれから、黒木はあまり馴れ馴れしくしてこなくなった。他人から見ればわからない程度の、ほんのわずかな変化だ。けれど紡にはわかった。ほんの少しだけ、距離が遠くなった。きっと黒木は、紡に好きな相手がいることを察したうえで、自分なりに線を引いたのだろう。そんなにすぐ気持ちが整理できるはずもないのに、すごいな、と紡は素直に感心した。 だから紡のほうも、黒木にはこれまで通り接した。今さら急によそよそしくなる必要もない。それで十分だったらしく、まわりの同僚たちには、ふたりのあいだにあった出来事は、たぶん誰にも気づかれていない。 有馬じゃない相手なら、こんなにも普通に振
キックオフを終えて、次の週からプロジェクトは本格始動した。 週に一度、プロジェクトメンバーが揃って進捗状況の確認を行う会議があった。本当は定例会議だけで事足りるにもかかわらず、有馬が「近くまで来ましたので」と紡を訪ねてくる日が増えていった。気づけば週に一度の定例会議とは名ばかりで、有馬とはほぼ毎日のように顔を合わせている。「あの……有馬さん」「なんでしょう」「そんなに頻繁に来ていただかなくても……」 別に有馬を拒んでいるわけではない。むしろ本心を言えば
キックオフの当日、紡はいつもより一時間も早く目を覚ました。 今日からblancのプロジェクトが正式に始まる。専任としてアサインされた以上、意気込みはもちろんある。 ただ、目覚めの早さの理由は、それだけではなかった。 数日前、社内システムにキックオフの参加者リストが更新された。トキワ文具側、セントラル・アド側、両社の名前が並んだ表を、紡はなにげなく開いた。 そこに、見慣れた名前があった。 セントラル・アド株式会社 営業三部二課 有馬朔也。 息が、詰まった。「…&h
月曜の朝、朔也はアラームが鳴る前に目を覚ました。 月曜は普段、寝起きが悪い。社会人になって以来、目覚ましより先に起きるのは初めてかもしれない。 緊張しているのか。自分の胸に問いかけてみる。 たぶん、そうだ。今回は初めて、自分から手を挙げた案件だった。 あくびをひとつして、ベッドを出た。 キッチンへ向かい、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのキャップをひねると、カチッと小気味のいい音がした。口をつけて、半分以上を一気に流しこむ。よほど喉が渇いていたらしい。一度口を離して息を吐き、残りも一気にあおった。







